「ヨセフ物語の結末」創世記50:15-20

7-8月の伝道月間が今日で最終回を迎えます。今年も暑い夏でしたが、毎回の礼拝が楽しみでした。私たちの周りの愛する人々のために祈り、お誘いし、伝道に励みました。この期間に蒔かれた福音の種は、決して無駄にならないことを信じます。また兄弟姉妹の生きた証しを通して大きく勇気づけられました。主なる神は、私たち一人ひとりの人生の中でユニークな方法で働かれます。

その事実を聖書の中のヨセフの人生を通して強烈に確認しました。創世記は、壮大な宇宙の始まりを語ります。しかし、望遠鏡を覗いて見るような壮大なスケールが、一気に顕微鏡に置き換えられたように細かい人間ドラマに移ります。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフへ続く四代の家族ドラマです。この伝道月間、9回にわたってヨセフの人生を追いかけてみました。今日は、その結末です。ただし、これはヨセフとその家族だけの話ではありません。これが創世記の結末であるのです。

父ヤコブの死後、ヨセフの兄たちには不安が戻ります。ヨセフがなお自分たちを恨み、ヤコブがいなくなった今こそ、「昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った」からです(15節)。兄たちを見るとき、罪と悪は、それ自体が裁きであることが分かります。誰にも知られなかったと思った罪により、兄たちは苦しみ続けてきたのです。エジプトにいるヨセフの下に来て17年も経つのにまだ恐れているのです。罪は、私たちを奴隷にします。

どうすれば自由になることが出来るでしょうか。ただ時間が解決するのではありません。具体的な行動を通して、和解されなければこの束縛から自由になることが出来ません。兄たちは人を介してヨセフに伝えました。父ヤコブが生前、兄たちを赦してやってほしい、と言ったと(17節)。きっとヨセフはそう言ったと思いますが、父の言葉を借りてまでもヨセフに赦しを求める兄たちの姿があります。そして、「あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください」という正直な悔い改めの言葉を伝えました(17節)。悔い改めの良いモデルがここにあります。行いを起こすこと、必要ならば人を介して、助けを借りてでも進み出ること。そして、プライドや言い訳を捨てた正直な言葉を語ること。それから兄たちは、直接ヨセフに会いに行きます。そして、完全に身を低めて「私たちはあなたの僕です」と語ります(18節)。兄たちは、本当にしてはならないことをしてしまいました。その行い自体が、彼らを苦しませてきました。人生において一番大切なことは、和解ではないでしょうか。兄たちの立場に身を置き、私たちもまた悔い改め、謝り、赦しを求めなければならない相手がいないか考えてみましょう。

人を介して伝えてきた兄たちの言葉を聞き、「ヨセフは泣いた」とあります(17節)。聖書らしく、簡潔にその行いだけを描写しますが、ヨセフの涙から何と多くの感情を読み取ることが出来るでしょうか。理不尽な苦しみと不当な扱いを耐え抜いてきたヨセフ。しかし、驚くべきことにヨセフの心は頑なになっていませんでした。温かい涙を流す柔らかさ、慈しみを知る心、どこからこのような心がヨセフに与えられたのでしょうか。どうして多くの古典的物語のように、あるいは私たちも密かに望むように、ヨセフは痛快な復讐に走らなかったのでしょうか。

その理由がヨセフの言葉の中にあります。「心配することはありません。私が神に変わることができましょうか」(19節)。ヨセフは、自分が神ではないことを知っています。当たり前ですが、非常に大切な信仰の基本です。続けて言います。「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(20節)。私は、これが創世記の結論であり、聖書全体の主題であると思います。そして、私たち一人ひとりの人生の隠れたテーマではないでしょうか。聖書は、人間の罪深さとこの世界の不可解な悪をどの書物よりも鋭く指摘します。キリスト者になるということは、この壊れた世界の現実から逃避することではありません。しかし、聖書はそこで終わらず、人間がどの時代でも企てる悪さえも善に変える神の力を語ります。そして神は、多くの人々を救う計画を展開しているのです。ヨセフ自身、自分の口で言いながら、神の計画の大きさと広さと深さを完全には理解していないのです。ただ自分の家族のみならず、エジプトの民のみならず、全ての時代の全ての人々、天と地、全ての創造されたものの救いの計画です。

しかし、現実の世界において、この救いの計画は、私たちの目にはよく見えません。だから聖書を見るのです。その中心にあるキリストを注目してください。ヨセフの人生は、キリストの人生を映し出します。聖書の全てがそうであるように。その中心から外に目を向けるとき、隠されていますが、時にはおぼろげにではありますが、神の救いの計画が今も動いていることが見えるようになるでしょう。

私たちの人生においても、振り返れば見えてきます。今までの神の救いの計画が。私たちの罪深さと過ちにもかかわらず、それさえ用いて多くの人々の救いの計画を続けておられる主を信じ、褒め称えましょう。

淀橋教会主管牧師 金 聖燮