キリストの愛に満たされた生涯(4)
第1章 キリストの愛とはどのような愛か(前回に続く)
Ⅳ. 失われた一匹の小羊を探し出し喜ぶ愛
主イエスの愛は、「見失った一匹の小羊を探し出し、それを見出し喜ぶ愛」です。何と優しい、何と素晴らしい愛でしょう。ルカの福音書の15章の冒頭に出て来る「見失った羊」の譬(たと)え話をご存じでしょう(ルカ15:1~7)。夏目漱石の小説「三四郎」の中で、漱石が「ストレイシープ(迷える羊)」という言葉を、何度も主人公たちの話題の中に取り込んでいますが、漱石もきっと聖書を読んで、主イエス・キリストの語られたこの言葉に深く感動していたに違いありません。
ともあれ主イエスは、ご自身の愛を、この一匹の失われた羊に例えて、罪人たちを裁く律法学者やファリサイ人に、失われた一人の人間を見出して救う大切な愛について、教えられたのでした。彼らは、主イエスが御許に集まって来た徴税人や罪人たちを迎えて、彼らと一緒に食事をしながら、親しく話をしているのを目撃し、なぜこのような下賤(げせん)な罪人たちと一緒に食事をし、交わっているのかと詰問(きつもん)しました。すると、すかさず主イエスは、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」と語られたのでした。これは、まさに主イエスご自身の抱いておられた愛の心でした。ではこの譬えを通して示されている主イエスの愛とは、果たしてどのような愛だったのでしょうか。それは次のような愛でした。
第一に、主イエスの愛は、「問題があり見捨てられても仕方がない、どんな価値なき人をも見捨てない愛」でした。この譬えの中に出て来る迷える羊は、羊飼いに従わなかった羊です。この羊飼いには、他に九十九匹の羊がいました。この見失った一匹のために、他の九十九匹を野原に残し、それを危険に晒してでも、のみならず自らも危険を冒して、その救出に向かう必要はないほど、この一匹には価値がありませんでした。しかし、この羊飼いは、この一匹をも深く愛していました。「愛は、人を盲目にする」とよく世の人は言いますが、真の愛は、損得や理屈を越えて、世俗的価値観による自己利益を計算せず、あたかも他者から見ると盲目的に思われるかもしれないほど、どんな無価値に見えるたった一匹の失われた羊さえ愛し抜き、それを惜しみ救出に向かったのでした。実に、これが主イエスの愛でした。
第二に、主イエスの愛は、「大きな自己犠牲を喜んで背負う愛」でした。この譬えを通して描かれている羊飼いの愛は、迷える羊を見つけ出すために、喜んで大きな自己犠牲・リスクを甘受しました。そこには幾つもの自己犠牲が払われ、リスクが背負われていました。
① 時間的自己犠牲 その羊を見つけ出すまで、長時間を失いました。
② 労力的自己犠牲 そのためには長距離の道を行き、相当の体力の消耗を要しました。
③ 経済的自己犠牲 そのためには他の九十九匹を野原に置き去りにしなければなりませんでした。その間に他の羊たちが獣に襲われたり、盗賊に奪われたりする危険があったのでした。
④ 生命的自己犠牲 羊を見出すためには、自分がけがをしたり、時には命を落とす危険すらありました。しかし、この羊飼いは、これらの自己犠牲を甘受して、喜んでこの一匹の迷える羊を探し出したのでした。
第三に、主イエスの愛は、「最後までやり遂げる貫徹した愛」でした。この羊飼いは、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩いたのでした。主イエスの愛も、まさにその通りでした。福音書記者のヨハネは、「最後の晩餐」の時の記録に、主イエスが「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。」(同13:1)と記しているのは、このことでした。また使徒パウロも主イエスが、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」(フィリピ2:8)御父の御心に従順に従い、ご自身の自己犠牲を甘受して、私たちを愛し抜かれ、私たちの救いを貫徹されたことを語っています。ヨハネの黙示録には、「死に至るまで忠実であれ。」(同2:10)と命じられていますが、まさに主イエスの愛は、十字架の死に至るまで貫徹された愛でした。
何と素晴らしい主イエスの愛でしょう。私たちは、このような主イエスの愛によって、愛されているのです。この愛に、何としても応えたいものです。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。