キリストの愛に満たされた生涯(2)

第1章 キリストの愛とはどのような愛か(前回に続く)

Ⅱ.罪人を赦す愛

 では次に、「キリストの愛」とは、どのような愛なのでしょうか。それは「罪人を赦す愛」なのです。これまた、何とお互い人間にとって、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」 (マタイ5:44)と言う主イエスのご命令同様に、難しいことでしょう。難しいと言う以上に、不可能と思える難題です。私たち人間の自然感情として、どうして自らに敵対し、しかも迫害さえ加える相手や、あからさまに自らに大なる不利益や身の危険をさえ及ぼした罪深い相手を、赦すことが出来るでしょうか。まさにそれは不可能事と言っても過言ではないでしょう。にもかかわらず、これまた前回に記しましたように、主イエスを救い主と信じ、その心に聖霊を注がれて、天におられる神を「アッバ、父よ」と呼ぶことの出来る神の子の霊を受けだ私たち(ローマ8:14~17参照)には、それが可能となるのです。なぜなら、人間の理性や、ましておや感情からでは到底不可能と思われるこの「罪人を赦す」と言う思いと行為が、聖霊に満たされて生きる時、お互いにも可能となるのです。そのようなお互いの心の内には、以下のような思いが宿るからです。

 第一に、その時、内にいます聖霊が、「人を裁くな」(マタイ7:1)と言われた主イエスの御声を思い起こさせて下さるからです。罪人である相手を赦せないのは、その相手を裁いているからです。その裁く心を抱くお互いに、裁こうとするその瞬間、聖霊は「人を裁くな。…あなたがたは、自分の裁く裁きで(自分も)裁かれ、自分の量る秤で量られる」と言う御声を厳かに、心の内に聞かせて下さるからです。つまりその時、心の内に人を裁く自分自身も、神のみ前には裁かれてしかるべき罪人であったことを思い起こされ、その自分が今あるのは、実に主イエス・キリストの十字架の血潮の尊い贖いによって、神から罪赦され救われた自分以外でないことを、思い起こされるからです。思えば、主イエスの語られた譬(たと)え話の中の一つに、王の一人の家来が、1万タラントンの借財を王に対して負っていたが、王は返済不可能であることを知り、その家族のことをも思い、すべてを帳消しにした上で、赦してくれたのです。ところが、その家来は、その大きな赦しの恵みを少しも意に介さず、その帰り道で自分に僅か100デナリオンの借金のある仲間に出会い、その借金の即時返済を要求し、その返済の出来ないことを知って、即刻その仲間に暴行を加え、のみならず牢に投げ込んでしまいました。この知らせを聞いた王は、激怒し、「私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったのか」と言って、彼を拷問係に渡したと言う話が出てきます(マタイ18:21~35)。そこで主イエスは、こう言われたのです。「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と。実に、厳かな譬え話ではありませんか。

 第二に、ですから主イエスは、極めて大切な日々の祈り、つまり「主の祈り」の中で、次のように祈ることを教えられました。「天におられる私たちの父よ、…私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人(罪人)を赦しましたように」(マタイ6:12)と。そうです。私たち神の子(キリスト者)は、常に自分に対して罪を犯した人々、負い目を与えた人々がいたなら、裁いたり、憎んだり、怒ったり、敵対したり、ましておや復讐しようとしたりするのではなく、先ず、自らが罪を赦され罪人であったことを謙虚に思い起こし、その大いなる赦しの恵みを覚えて感謝し、そして今、罪を犯してしまっている相手の悔い改めと救いのために、執り成し祈る必要があるのです。その時、「私たちも自分に負い目のある人(罪人)を赦しましたように」と、すでに「赦した」と完了形で祈れたなら、何と幸いなことでしょう。せめて、「赦しますから」とか、「赦したいと思いますから」、「赦せる心を与えて下さい」と祈ろうではありませんか。

 第三に、主イエスの愛が、「罪人を赦す愛」であり、「罪人を招いて救う愛」であられた様に、私たちも「主イエスに倣う者・似る者」となるためにです。ある時、ファリサイ派の人々が、徴税人や罪人と共に主イエスが食事をしているのを目撃して、それを非難すると、主イエスは、即座にこう言われました。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)と。また、主イエスは、百匹の羊の内の一匹の見失われた羊の譬えを通して、こう言われました。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」(ルカ15:7)と。何と素晴らしい、主イエスの御愛でしょうか。

 このように主イエスの御愛は、まさに「罪人を赦す愛」であったのでした。それゆえ、私たちもこのように罪人を裁かず、罪人をさえ愛し、その罪を赦し、その人の罪の悔い改めと救いのために執り成し、祈る者でありたいと思います。そのために、絶えず聖霊に満たされ歩み続けようではありませんか。御霊の結ぶ実は、常に「愛」だからです。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。