東京・新宿で教会をお探しの皆様[淀橋教会公式ブログ]

教会へのみちのり

T. N.

 私は昭和27年に福岡県の小倉で生まれました。場所は、女子刑務所の門のまえの家の2階です。父親は、映画館の映写技師でしたが、ギャンブル好きで苦しい生活だったようです。私が生まれてすぐ、借金問題で離婚したそうです。

 その後、3歳まで広島県の三次の叔父夫婦に預けられ、育てられました。母はその間に再婚し、3歳の時に親と一緒に暮らすことになりました。私はもともと広島の叔父夫婦を親と思っていましたから、父親に置き去りにされたと思い、引き取られた後も、母親となじむのに時間がかかったそうです。

 その後に関しては、書き出すと原稿用紙30枚ぐらいかかないと終わらないくらい色々な事件がありました。その中でも一番は、8歳くらいのときに義理の弟が突然わが家に来た事です。義理の父親は、その子を猫っ可愛がりしました。えこひいきばかりの日々でした。そんな事もあり、私は早く家をでて、独立したくてたまりませんでした。

 義理の父は、私を大学に通わせる気が有りませんでしたので、高校の時、これからは、コンピュータが主流になると興味を持ちコンピュータの専門学校に行くために東京に出てきました。なぜ、東京かと言うとコンピュータの仕事を本格的にするには東京しかないだろうと思ったからです。

 その専門学校に入学した年の6月にアルバイトでコンピュータの派遣オペレータの仕事を始めました。正直、設立したばかりの会社でたよりない体制でしたが、弱い者を見ると助けたくなる性分が有り、そのままその会社に入社しました。働いていくなかで、色々な不合理な事もありましたが、ちょうど10年目で退職することにしました。

 次に入社したのは、私がコンピュータを売ったお客さんである旅行会社でした。一緒に仕事をする事を断念したいと思わせるほどの色んなタイプの方が居ましたが、せっかく旅行の仕事に就いたので「旅行業取扱主任者」の資格を取得するまでと思い、5年間働きました。

 その後、旅行会社を起こしました。ちょうどこのころ、私は初めて「淀橋教会」を知ることになりました。25年前のことです。その時のお客様の中に、毎年1月4日に社員旅行を行う会社があり、その集合場所が「淀橋教会」前でした。その旅行は3年続きました。

 弱い者を見るとすぐ値引きしたくなる性格がたたってか、会社は倒産しました。借金を抱えて転職しました。そんな時、行きだした店に韓国人の女性が居ました。その女性はいつも笑顔でした。不思議だなと思い興味がありました。その女性と何回か会ううちに親しくなりました。すると、あるとき、その女性から「貴方は、教会に行く資格があります一緒に行きませんか?」と誘われました。

「教会に行くのに資格がいるんだっけ」と不思議に思いましたが、その女性に嫌われたくなかったので、一緒に付いて行きました。(実は、その時は、「自分が良い人だから教会に誘われたんだな」と思っていました。ところが、後になって、聖書の勉強をしたら「罪深い人ほど教会で恵まれる」と言う事を知り、勘違いしていた事がわかり、笑いました。)

 旅行の集合場所で行ったあのときから9年後、また教会に行くことになりました。今この淀橋教会を見た皆さんは「大きいし、美しい」とおっしゃってくださるんですが、私が、教会“らしき”所に行ったときは、この建物の前の建物を解体する時で、「仮会堂」と言われる場所でした。その場所とは、「Wゼミナール」でした。地下の階段教室が、メインの会堂で、そこで礼拝がもたれていました。

 「牧師はお金の話をするし、建物はあやしいし、本当にあの淀橋教会なのだろうか」と思いました。念のため、もう一度地上に出て看板を見ましたが、やはり「淀橋教会」でした。(教会の印象に誤解のないように補足しますと、“お金の話”とは、この新会堂を建てるために集まった献金の金額の報告をしていただけなんです。)

 でもその時、私はやっぱり変だと思い、その韓国の女性に色々と文句を言いました。するとその女性から返ってきた返事は、「教会は、牧師や信者に会いに行くのではなく、神様に会いに行く所だから小さな事は関係ないんです」という言葉を言われました。その言葉で教会を見る目が変わりました。

 でも、私は「信者」になるつもりは全くありませんでした。だから、二度と行く事の無い「教会」に一度しか行かないのでは、話のタネにもならないと思い、一ヶ月は行ってみようと思いました。

 一ヶ月経ってみると別に良い事はありませんでしたが、悪い事もありませんでした。「なら、無理に行くのを止めなくても良いか」と思い、教会に行き続けました。ある人から、その年のクリスマスの洗礼の話を進められたこともありましたが、私は、クリスチャンになる気もなかったし、元々天の邪鬼ですから、誘われるとよけい嫌な気持ちになり、断りました。でも、そのまま教会には行き続けました。

 私は元々中途半端な事が嫌いな性格なので、このまま教会に通うんだったら、「洗礼」を受けようと決心し、1996年4月7日のイースターに洗礼を受けました。

 洗礼を受けても別に変わった事はないように思いました。でも、洗礼を受けると言う事は、「神様」を信じると言う事なので、何が起こっても「神様が一番良い方向に進ませてくれる」と思い、悩みがあると全て神様に話しかけるようになりました。愚痴も言いました。そのうち、悩みは「自分が解決する」のではなく、神様が全てを知っているのだから「神様が解決してくださる」と思え、心を預ける事ができるようになり、心が軽くなりました。

 これを読んでいる方の中には、クリスチャンはいつも最後には、良い事を言って誘うと思う方もいらっしゃるかもしれません。私も以前はそう思っていました。でも、今日ここで記した事は、綺麗事でもなんでもないんです。私の本当の経験なんです。信じるかどうかは、皆さん次第です。

 

山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章2節

 

 今は、会社も引退し、毎日、教会の事務室でボランティアをしています。クリスチャンである事を誇るのではなく、キリストの香りを少しでも伝える者としてこれからも生かされていたいと思っています。皆さんも神様を信じて、共にイエス様の友人になりませんか?皆さんのお越しを、ぜひ、お待ちしています。