安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(11)

峯野龍弘牧師

第4章 主と共に歩む生涯をどのように築き上げて行くべきか

Ⅲ. 主イエスの謙遜と従順に倣う生活

さて、更に「主と共に、主イエスに倣って」生きる生涯の奥の院に踏み込んで行きたいと思います。次はどのような生き方を学ぶことによって、心安らかな豊かな人生を過ごして行くことが出来るのでしょうか。それは主イエスのご生涯の中に見出すことの出来る「謙遜と従順」の生活ではないでしょうか。

主イエスはご自身の弟子たちにしばしば「人には謙遜を、そして神には従順をもって仕える」ように教えておられました。なぜなら主ご自身、そのようなお方であられたからです。お互いは神の御前には謙遜に膝づくものであり得ても、しばしば人に対しては自分を誇り、他者を軽蔑したり、裁いたりしがちです。またそういう人に限って目上の上司や立場の上の権威ある人々に対してうやうやしく媚(こび)りがちで、いかにも従順であるかのように装うものです。これは真の従順でないばかりか、神の御心に従って生きることへの不従順にすぎません。神の御心に従順な人は、常に人を差別せず、身分の上の人にも媚びることもなく、また下の人を蔑視することもなく、常に真実をもって、心から遜(へりくだ)って仕えることが大切です。このような人の心は、常に相手の如何に関わらず、神の御心に従て生きることを望んでいるので、相手の評価や反応を少しも気にすることなく、ただ神がその心と行為をご覧になり、喜んで下さっていることだけを考え、いつも平安で心豊かに過ごすことが出来るのです。ですから主イエスは、弟子たちに対して謙遜に人々に仕えることが、神にある者にふさわしいことを教え示しました。

そこで先ず、人に対して「謙遜」であることに対する主イエスの典型的教えの幾つかを記してみましょう。

主イエスは、人の上に立ち他人を支配する者になることを、密かに願っていたヤコブとヨハネ兄弟に対してこう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子(主ご自身のこと)が、仕えられるためではなく仕えるために、・・・・来たのと同じように」(マタイ20:26~28)と。

また他人より偉く成ることを願望していた世俗離れできていない弟子たちを戒めて、こう言われました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天国でいちばん偉いのだ。わたしの名のゆえにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18:4~5)と。

これらの聖言の真意は、いずれもお互い人間がこの地上の生活において、「謙遜」に生きることの大切さを教えている戒めの一つであると理解することが出来るでしょう。

また最も顕著な主イエスの「謙遜」の教えとその最高の良き模範を、お互いは「最後の晩餐」の時の主ご自身のお姿の中に、見出すことが出来ます。主はこの最も重要な「最後の晩餐」の折に、弟子たちを身許に集めて、主自らが「僕の姿」を取って弟子たちの汚れた足を洗われました。そして言われたのです。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。・・・主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:12,14~15)と。

そうです。おそらく主は間もなくしてご自身は使命を終えて、この世を離れ天にお戻りになられる日の近いことを知って、地上に遺して行くご自身の後継者である弟子たちの間で、だれが一番上に立つ筆頭幹部となり他を指導するかとか、また互いに相手を裁き合ったりして仲たがいして問題を起こすことのないように、各自「キリストにある謙遜」を身に着けてほしいと願われて、このようになさり戒められたのではないでしょうか。真に互いに「謙遜」であることは、弟子たちが競い合い、争い合ったりせずに、いつまでも平和な交わりを深め、一致共生してその委ねられた尊い使命を、この世にあって遂げて行くために、極めて大切なことであったからです。

ですから後に使徒パウロが、この主イエスの「謙遜」の教えとその尊い生き様とを、次のように彼の書簡の中に書き記し、とかく互いに妬み争い、裁き合って分裂しがちな、フィリピ教会の人々に向かって、究極の「主イエスの謙遜」の姿を描き出し、教え示したのでした。つまりこう記しています。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:3~8)と。

これこそ心安らかに豊かなキリスト者生涯を送るための、主イエスご自身が模範を示された究極の「謙遜の心と生き様」だったのです。

どうかこの点においてもお互いは、全生涯を通じて常に深く心に留めながら、「主と共に、主イエスに倣って」歩んで行きたいものです。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。