安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(14)

峯野龍弘牧師

第4章 主と共に歩む生涯をどのように築き上げて行くべきか

Ⅴ. 十字架を背負って歩むアガペーの生活

主イエスと共に、主に倣って生きる生涯の最高峰、そしてキリスト者生活のクライマックスは、「十字架を背負って歩むアガペーの生活」ではないでしょうか。

主は、山上の垂訓の中で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。・・・自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」(マタイ5:44、46)と教えられました。これは主イエスが抱かれていた、まさにその尊いご生涯を通してご自身が実践された「全き愛」、「真の愛」の道でした。この愛の本質は、まぎれもなくギリシャ語で「アガペー」と表現されている新約聖書固有の愛、つまり「神の愛」、「主イエスの愛」を意味する究極の「聖なる愛」にありました。主イエスは、弟子たちもまたこの「アガペーの愛」に生きてくれることを願い、このように語られたのでした。

では、実際にこの「アガペー」に歩み、生きようとしたら具体的には、果たしてどのような生き方をしたら良いのでしょうか。それは次のような生き方をすることではないでしょうか。つまり「アガペーとは、相手のために、しかも自らに敵対し不利益を与える相手のためにさえ、あえて自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために、献げ、仕えて行く、何一つ見返りを期待しない、心と生活である」と言うことです。これをお互い淀橋教会の一同は、「アガペー共同体」である淀橋教会の「アガペーの定義」と呼んで、常に唱和し合い、心に留めて歩んで来ました。言うまでもなく、これが主イエスのお互いに対するご期待であり、ご願望であるからです。

そもそも「敵を愛する」と言うことは、お互いの人間感情からすれば絶対にと言って良いほど、そんなことは出来ませんし、あり得ません。そこには「怒り」や「憎しみ」、そして「口惜しさ」や「悲しみ」こそ湧き上がってくることがあっても、決して「愛する」ことなど、みじんも起こってくるはずがありません。また同様に「迫害する者のために祈る」と言うことも、人間の自然感情からはあり得ません。しかし、にもかかわらず使徒パウロも、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマ12:14)と勧めています。

では、自然感情からではなく理性によっては、どうでしょうか。確かにある種の高徳な人には可能かもしれません。ですからもっと修業を積んで、主イエスに倣って精神鍛錬を重ね、高徳な人物に成長して、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」人間となれと、主イエスが教えられたのでしょうか。あたかも難行苦行の末に、悟りを開き、解脱した仏教の高僧のように。しかし、全くそうではないのです。では一体なぜなのでしょう。どうしたらそのようになれるのでしょうか。それは恵みにより、信仰により、聖霊によってお互いの心の内に「キリストの愛」、つまり「アガペー」が豊かに注がれるからです。その時、お互いは感情を越え、理性を越えて、絶対不可能に思える「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことが出来るのです。ですから使徒パウロは、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3~5)と言いました。またこうも記しています。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―、・・・事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:4~5、8)と。そうなのです。お互いが「敵を愛し、自らを迫害する者のために祈る」ことが出来るのも、お互い人間の力、つまり感情によってでも、また理性によってでもなく、ただキリストを救い主として信じた者の内に注がれる「神の愛」と「恵み」によるものであり、信仰と聖霊による「神の賜物」なのです。これはまさに目に見える物事の中に起こる奇跡にも遥かに優る、信仰者の心の内に起こる「霊的奇跡」です。しかし、いわゆる奇跡のようにごく稀に起こるものではなく、常に信仰者の心中に持続して起こる継続的恵みであることから、これはキリストを主と信じ告白する者で、しかも聖霊に満たされ「内住のキリスト」の恵みに与っている者の内に成し遂げられる大なる恩寵経験なのです。つまり、内住されるキリストの「アガペー」が、その人の内から溢れ出て、その人にも敵をも愛することの出来る「アガペー」を実現させて下さるのです。ですからパウロは、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリ5:14)と解説しています。何と素晴らしい驚くばかりの恵みでしょうか。まさにこれを「外的奇跡」にまさる「大いなる内的奇跡」とでも呼びたいと思います。

そこで主イエスは、弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)と言われたのです。これまた主のため、他者のために喜んで愛の労苦を担うと共に、特に自己犠牲を甘受して不利益を担うことへの「アガペー」の勧めです。なぜなら、これこそが主イエスご自身が歩まれた「十字架のアガペー」の道だったからです。ですから主はご自身にどこまでも追従して行きたいと願っていた弟子たちに、それならば「十字架を背負って、わたしについて来なさい」と「アガペー道」を伝授されたのでした。愛兄姉方よ、あなたもこの「アガペー道」を身に着けたいと、心から願いますか?(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。