安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(5)

峯野龍弘牧師

第2章 主と共に歩む生涯の究極の目標

キリスト者生涯の地上生活の究極の目標は、何でしょうか?それは「主の祈り」の冒頭で、「父よ、聖名が崇められますように!」と祈るように、「神の栄光のために生きる」ことであり、また「他者の祝福のために生きる」ことです。この二つは、実は最も重要な主の二つの戒めを満たすことに他なりません。それは主イエスが一人の律法の専門家の問いに答えて、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40)と言われたこの二つの戒めを満たすことになるからです。そうです、「聖名を崇める生き方」とは、「神を愛すること」であり、「他者を祝福する生き方」とは、「隣人を愛すること」に他なりません。実にこの地上に来られた神の御子、主イエスは、まさしくこの二つの戒めをご自身のうちに完全に実現されたお方でした。主は、父なる神を愛され、一人一人の人間をご自身の隣人として愛され、神の栄光のため、人々の救いと祝福のために、ご自身の尊い命を十字架の祭壇上に献げられたのでした。ここに主イエスの神と人間への完全な愛(アガペー)が、現わされていたのでした。

そのようにお互いキリスト者は、自らの生涯を通じて絶えずこの主の愛の戒めに歩み、主に倣い、神の栄光と人々の祝福に仕えることが大切です。これこそ究極の生涯上の目標であり、生きる目的でなければなりません。では果たしてどのようにしたらその目標・目的を果たすことが出来るのでしょうか。まさにこれは言うには易く、行うには難い事柄以外ではありません。しかしだからと言ってこの大切な目標・目的を喪失したり、それからそれてはならないのです。なぜならこれはお互いを神の子として下さった父なる神と御子主イエスのお互いに対するご希望であり、ご期待だからです。お互いはこれを裏切り、これを退けてはなりません。この神の子として下さった主の御愛に何としてもお応えしなければなりません。それではどうしたらよいのでしょうか。祈れば良いのでしょうか。もちろん祈らなければなりません。しかし、祈っているだけではいけません。そうです、主イエスに従い、主イエスに倣い、主と共に歩んで行けば良いのです。どこまでも、いつまでも、地上における生涯の最後の一息に至るまで、主イエスに従い、主イエスに倣い、主と共に進んで行けばよいのです。その時、共におられる主イエス・キリストご自身が、ご責任をもって私たちを導かれ、守ってくださるのです。主はその尊い命をもって救い、贖い、神の子として下さったお互いが、どこまでも主に従い、主イエスに倣い、主と共に歩むその心と生き様をお喜びになり、常に共におられて、見捨てることも、見放すこともしないばかりか、聖名の栄光にかけてお互いの生涯を保証し、全うさせて下さるのです。み言葉に次のように確約されているではありませんか!

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(フィリピ2:13~16)と。

のみならず、実に素晴らしいことに努力や才能の如何に関わらず、主から寵愛されている神の子であるお互いは、主の愛の御心に従って、主に倣い、主と共に歩んで行来さえするならば、主の豊かな恵みと導きのもとに、いつしか主に似る者として頂けるのです。なぜなら使徒パウロがいみじくも「神は前もって知っておられた者(神の子)たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」(ローマ8:29)と言っているように、お互いは既にそのようなものとして主から愛され、召されているからです。ですからヨハネもまたその手紙の中でこうも言っているのです。すなわち「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(Ⅰヨハネ3:2~3)とさえ記しているように、お互いは主イエスと共に歩んで行く内に、遂に主イエスに似る者としていただけるのです。何と言う驚くばかりの恵みでしょう!ですからいつでも、どこでも生涯の最後の一息に至るまで、主イエスを仰ぎ見、主をお慕いし、主イエスに従い、主イエスに倣い、主と共に歩む者であらせていただきましょう。その時、主のお約束の通りに、お互いは必ず地上生涯の究極の目標であり、生きる目的である「主の栄光のため、人々の祝福のため」に、また「神を愛し、隣人を愛する」生涯を生き抜くことが出来るのです。主の聖名をほめたたえましょう!ハレルヤ!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。