愛による全面受容と心の癒しへの道(105)

峯野龍弘牧師

第7章 「ウルトラ良い子」を健全に育てるための「アガペー育児法」

Ⅲ、第2期 3歳から6歳までの幼児期後半の幼児教育(前回からの続き)

A.人間関係における調和の精神と感性の育成
2 如何にして愛することの大切さを教えたらよいのか。

ⅲ.ではどのように愛したら良いのでしょうか。(前回に続く)

(4)第四には「祈ること」です。
「愛は祈る」と言う古来からの西洋の格言があります。日本人の文化や歴史の文脈の中からは、なかなかこうした考え方は理解し難いものがあるかと思いますが、実はこれほど大切なことはないとさえ言っても過言ではないと申し上げたいのです。つまり如何にしたら子供に愛が伝わり、子供が愛されたことを知るようになれるのでしょうか。

例えば日本においても昔から両親とくに母親は、自分の子供が重い病を患い、生きるか死ぬかの生死の境を彷徨うような事態が発生した場合に、しかも医者ももはやどうすることも出来ないような危機に直面した時、思わず超自然の神仏の助けを求めて、ひたすら「お助け下さい。お救い下さい」と祈るではありませんか。日頃は神信心の薄い無宗教の母親でさえ、我が子の癒しや救いを求めて、思わず神頼みするではありませんか。これを「困った時の神頼み」と嘲ったり、軽視したりしてはいけません。これこそ人間が単なる動物ではなく、神の被造物としての霊魂体を有する人間の霊性の発動としての、人間固有の卓越した能力であり、尊厳ある特質です。しかも、このような万事が休してしまった時こそ、それに甘んじられず愛する子供の癒しや救いのために神仏により頼み祈ることは、「愛のゆえの必然的結果」であり、「母の愛の存在証明」でさえあります。もしかかる場合に祈れないか、祈らないとするならば、それは我が子に対する「愛の不存在」を意味すると言っても過言ではありません。そうです。まさに「愛は祈る」ものなのです。そうではないでしょうか。

思えば愛の主であるイエス・キリストが、自らを十字架に釘づけた人間に対してすら「父よ、彼らをお許しください」と神に祈られ、彼らのために執り成しの祈りを捧げられたのは、まさしく「愛」のゆえでした。

かの有名なマザー・テレサも、ブラザー・ロジェも「愛と祈り」の関係について、次のように言っています。

「祈りです。祈りこそ、愛の源です。心を燃やし続ける愛の源。」

さて、ウルトラ良い子たちは、既に何度も申し上げてきましたように、その心の内に霊的感性を通常の子供たちに優って豊かに宿しています。
ですから彼らは祈られる時、その霊的感性が潤され、安息するのです。
のみならず自らが並みでなく深く「愛されている」と感じるのです。何という不思議な、素晴らしい感性でしょう。彼らの感性は、生まれながらにして霊的、神秘的、宗教的であると言っても過言ではありません。それはいずれかの既成宗教の枠組みを超えて、本質的に宗教的なのです。このような彼らの感性に深く届き、それを充足させ、安息させる最良の道が「祈り」なのです。そして何よりも彼らの耳元で優しく捧げる母親の、いや父親においても、祈る「祈り」の中に、彼らは深い愛、大きな愛を感じ取ることが出来るのです。ですから、是非、祈れる両親でありたいものです。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。