1911年(明治44年)になると「日本聖教団」が創設され、近くに独立の新会堂も完成したので、これを契機に「淀橋教会」と呼称するようになり、初代牧師には時の聖書学院長であった聖徒、笹尾鉄三郎師が就任しました。
ちなみに第二代は車田秋次師、第三代は中田重治教団監督自身、この二人の在任期間はいずれもほんの短い間であり、その次の第四代牧師に就任したのが小原十三司師です。
小原十三司師は56年の長きにわたって淀橋教会を牧会されました。この小原十三司師在任中に淀橋教会は、数々の主の栄光を拝しました。 わけても1919年(大正8年)と、続く1930年(昭和5年)の二度にわたるリバイバルは、日本中に大きな霊的祝福をもたらし、礼拝出席者平均も500名近くになり、会堂も二度にわたり増改築を余儀なくされるほどでした。
しかしその後1936年には所属団体の分離事件が発生。また戦争が始まると国家による激しい迫害と弾圧が始まり、1942年6月26日未明には教会弾圧によって小原牧師が投獄されます。併せて教会の解散命令が出されたばかりでなく、空襲によって会堂が焼失するなど、未曾有の試練と受難を経験しました。
終戦を迎え、小原牧師は獄中からの解放と共に不死鳥の如く復興しました。自身の獄中生活の中で示された主の幻に従って、新生日本の将来のために1000人教会、1000人会堂の建設のビジョンが打ち出され、1964年には、当時の日本のプロテスタント教会中最大規模の新会堂(前会堂)が完成したのでした。
そして小原師は日本の福音派諸教会の卓越せる霊的リーダーとして、何よりも復興した淀橋教会の大牧者として、牧会と宣教にあたり今日の祝福の基礎を据えられ、遂に1972年1月25日に、“リバイバル、リバイバル”との遺言の如き声を残して、輝かしく天に凱旋して行かれました。
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